沖縄旅行では久部良割もみたし、人枡田へも行った。
本土における豊臣、徳川の覇権争いが関ケ原の戦で決着し徳川幕府の政権が安定していくと同時に各地の帰趨も明確になり、西国の雄藩薩摩は堂々と大琉球を併呑する。
その搾取の手はこの南海の果てにまでおよんだといわれます。
琉球王尚敬は各地各島の疲弊を建てなおし再開発するために積極策をすすめた。
司官藥温は各島を検分して開拓に意欲を燃やす、というと聞えがよいがそのやりかたもまた非道なものでした。
過疎化した村へは過剰気味のところから強制的に移動させる。
それも部落を検分して、村道から右側全部行かせてしまった。
あるいはその反対というような乱暴な命令であったらしい。
歌がのこっています。
雨はみの笠で防げるが御主加那志前の御命令ばかりは特別で泣く泣く別れていく恩納ナベの村で祭りが禁止されたのとやはりおなじ時期の出来事です。
当時与那国の人口は三万人、全沖縄の人口の一割以上であったというから、耕地不足で食糧難におちいったのは当然のことです。
しかも、男一人に女六人の女護島であったというから藥温が立腹した。
「なんとかせい」島にはいくつかの部落があって按司が統治しています。
村長のことであるが、酋長とはいわなかった。
あつまって鳩首協議する。
とにかく、人口の増加をくいとめなければなりません。
一計を案じた。
妊婦を堕胎させなければなりません。
岩の裂目をとばすことになったこれが久部良割です。
この話は現在かなり誇張して伝えられています。
島の西側久部良部落の岩だから久部良割というのであるが、2、3メートルの裂目になっています。
ここを何度もとぶうちには流産したと思われるが、いまではまるで妊婦そのものを整理するために行われたかのように大袈裟になっています。
むろん、落ちて死んだものもあるだろうけれど、当初の目的はそのようなものではなかったと思います。
妊婦が岩に腹を打ちつけて流産させる話はよくあることだし、それと似たようなことで、私は久部良割の10メートルを越える裂目が女陰にそっくりなので、そっくりつくり話ではないかと現地で首をかしげました。
やはり与那国島の海岸に軍船岩というのがあります。
潜水艦の形にそっくりなので、戦争中アメリカの潜水艦が魚雷を発射したことになっています。
ところが伊江島にもそっくりおなじ話が伝わっています。
沖縄の人達は話がうまいので、聞いていると本当に思えてくるから不思議です。
いまにこれも伝説化されてしまうのではないか。
ともかく、久部良割の荒療治はつづけられました。